メキシコへ
最初の話は「異国でのアイデンティティー」についてです。
私は二卵性双生児の弟として、鎌倉・大船で私は産声をあげました。
しかし生まれて半年、父の転勤のため家族でメキシコへ移住します。
首都から車で2時間、クエルナバカという街で、幼少期のほとんどをそこで過ごしました。
周りに日本人はおらず、父の仕事仲間と家族ぐるみで支えながら暮らす毎日。
泥棒に入られるなど、怖い思いも体験しました。
日本人として生まれながら、メキシコしか知らず、スペイン語を話す僕たち兄弟を特に母は「この子たちのアイデンティティーはどこにあるのだろう」と心配していたようです。
私たちのアイデンティティーを確立するために、家では日本語を話し、食事は日本食中心にするなど、日本の文化を大切にして暮らしました。
母の心
父と母は、どんな時でも日本の心を貫いていた、と今になって思います。
例えば、メイドへの接し方にもそれは表れていました。
メキシコでは、メイドがいるのが当たり前。
我が家にも当時14歳ほどの少女ケイタがやってきました。
通常、メイドは主人たちと同じような部屋で寝ることも、ともに食事をとることも、よしとされていませんでした。
しかし両親は、ケイタに部屋を与え、一緒に食事をとり、さらには読み書きができないと知ると、学校まで通わせていたのです。
「メイドではなく、娘だと思って預かっている」
そう両親は言っていました。
これこそ、相手を深く思いやる心。
私は今でも、両親の考え方には尊敬しかありません。
思いやりの気持ちを教えてくれた両親を喜ばせたい、私の根底にはそんな想いがあります。
サッカーの国で
メキシコにいた頃はまだまだ偏見があり、国民的スポーツであるサッカーで相手を負かすことしか、自分の存在を守るものはありませんでした。
雪辱はすべて、サッカーの試合で取り返す。
負けず嫌いな性格はこの頃からだったように思います。
サッカーにすべてをぶつけ、プレイで黙らせるうちに、自分の中にも「日本人でよかった」と思う気持ちが生まれてきました。
日本人としての意地、自分の意地のようなものだったかもしれません。
異国で育ちながらも、自分の中で日本人としてのアイデンティティーが確立されていくのを感じます。
もし両親や私が、日本に住み続けていたら・・・
このような強い思いは生まれなかったと思います。
今、私を動かす信念の根底にあるのは、この「異国でのアイデンティティー」なのです。